INICIAR SESIÓN帰りの車内は静かだった。小春は膝の上に置いた植物図鑑を何度も見つめては、時折嬉しそうに微笑んでいる。「そんなに気に入ったか」運転しながら、横目で小春を見ていた樹が穏やかに尋ねる。「はい」小春は照れくさそうに頷いた。「母が教えてくれた花がたくさん載っていて……庭のお花と見比べるのが楽しみです」それに、と小春は小さく笑う。「花の組み合わせとか、見た目もですけれど、土や肥料でも相性があるみたいで……庭師の新井さんと、もっと専門的な話ができるかもって」「そうか」樹が小さく頷く。その横顔を見ながら、小春は思い切ったように口を開いた。「今日は、本当にありがとうございました」「礼は何度も聞いたぞ」「でも、何度だって言いたいんです」図鑑を抱き締め、小春は優しく笑う。「今日のこと、一生忘れません」樹は返事の代わりに小春を見つめた。その笑顔を曇らせたくない。ただ、その思いだけが胸に広がる。車が篠原家の門をくぐると、小春は息を吐いた。その力の抜けた、安心したような様子に樹の口元がわずかに緩む。「大したことはしていないが、やはり家へ帰ってくると落ち着くな」何気なさを装ったこのひと言に、小春は何と答えるか。「そうですね」同意の言葉に樹の表情がわずかに和らぐ。「それならよかった」.「お帰りなさいませ」玄関では橘たちが笑顔で迎えてくれる。「ただいま、戻りました」自然に返事をする小春。また一段、小春が距離を縮めてくれた様子に、橘は嬉しそうに微笑んだ。「小春様、今日は楽しまれましたか」「はい。とても」図鑑を見せながら話し始める小春を残し、樹は柳沢へ目配せする。「書斎へ」「承知しました」二人は静かに部屋を移した。.書斎に入り、扉を閉めると同時に柳沢が口を開く。「尾行していた男ですが、依頼主は朝比奈崇道氏だと証言しました」樹はゆっくりと息を吐く。「はい。写真は書店から出てきたもののみでしたが、小春様が社長と行動していることは知られました」書斎に沈黙が落ちる。「社長」柳沢が静かに尋ねた。「そろそろ朝比奈家へ警告をなさいますか」樹は窓の外へ目を向ける。あの庭で、小春はあの図鑑を使って庭を作るのだと楽しそうに話していた。「……まだだ」「ですが」「追い詰められた人間ほど、何をするか分からない」「……確かに
「やっと見つけたぞ……小春」朝比奈崇道は、雇った私立探偵から送られてきた写真を食い入るように見つめた。そこには何かを大事そうに抱えて、穏やかに微笑む小春と、その隣を歩く篠原樹の姿が写っている。「本当に篠原家にいたのか」崇道は低く呟いた。篠原樹のもとに小春が身を寄せていると考えて探らせていた。だが、こうして驚いているところを見るに、自分はそれを信じていなかったようだ。「院長、どうなさいますか」秘書が慎重に尋ねる。篠原家は、こちらが慎重になる相手。そんな家が小春を、と崇道は思ってしまう。だが。「迎えに行く」崇道は迷いなく答えた。気にすべきは皆川隆盛だと思ったからだが。すぐに首を横へ振る。「……いや、それでは駄目だ」「と、おっしゃいますと?」「相手は篠原樹だ」崇道は写真を机へ置く。経済界で"冷酷"と恐れられる男。「あの男が、何の目的もなく小春を家に置いているとは思えん」目的が分からない以上、交渉はできない。篠原樹に中途半端な駆け引きは通用しない。「力ずくで連れ戻すことはできん」「では、警察へ届け出ますか」秘書の言葉に崇道は笑う。「何の容疑でだ」崇道は鼻で笑う。「誘拐か? 成人した娘が自分の意思で世話になっているだけだと言われて終わりだ」秘書は黙り込む。「それでは……」崇道は考える。「父親として、娘を迎えに行く」崇道は静かに言った。「世間も法律も、父親が娘を心配して迎えに行くことまでは責められん」崇道の言葉を、秘書は納得できなかった。父親が娘を迎えにいくことは、崇道の言う通り、おかしなことではない。ただ、それが普通の親子なら。崇道は小春に対し、娘として何も気遣ってこなかった。それどころか、使用人以下の扱いだったことを秘書は知っている。だから。「小春様が拒否された場合は……」「拒否などさせない」崇道は秘書の言葉を遮る。その口元は歪んでいた。「あいつは私に逆らえない」幼い頃から従わせてきた。叱責し、恐怖を植え付けてきた。悪女を演じることを嫌がっていたが、強く言えば逆らわなかった。仮に篠原樹に保護されていたとしても、急に反抗できるようになるわけがない。崇道はそう信じていた。「何よりも大事なことは」崇道はもう一度写真を見つめる。穏やかに微笑む小春に苛立つ。誰のせいで、こん
丁寧に包装された植物図鑑を受け取り、小春は大切そうに胸へ抱き寄せた。「本当に、いただいてしまって宜しかったのですか?」「もちろんだ」篠原樹は穏やかに頷く。「そんなに気になるなら、俺との約束のために役立ててくれると嬉しい」「……はい」小春は包装紙をそっと撫でる。嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。「ありがとうございます。大切にします」「覚えた花を、一緒に庭で探すのも楽しそうだな」「はい」小春は自然と笑顔になる。「頑張って覚えます」「無理はしないようにな」二人はゆっくりと店内を歩き始めた。料理の本。旅行雑誌。話題の小説のコーナー。小春は見るものすべてが新鮮で、時折足を止めては目を輝かせる。.「これ、母が好きだった作家さんです」「この絵本、小さい頃に読んでもらった記憶があります」思い出を一つひとつ語る小春。そんな小春を、樹は静かに見つめていた。◇◇◇「少し休むか」店内のカフェスペースを見つけた樹が声を掛ける。窓際の席へ座る。やがて、運ばれてきた紅茶から優しい香りが立ち上った。「こういうお店へ来たのは初めてです」カップを両手で包みながら、小春が照れくさそうに笑う。「友達と遊びに行くことも、ありませんでしたから」「そうか」樹はそれ以上聞かなかった。「初めてだろうが、慣れていようが、今が楽しければいい」「楽しいです」小春は窓の外を見つめながら呟いた。「ずっと、こういうことをしたかったんです」病院のスタッフの女の子たちがしている、何気ないこと。やりたいと思ったことを、やる。成人しているのだから、やればいいと笑われるだろう。でも、それが小春には難しかった。小春はずっと、朝比奈家に浪費されてきた。単純な労働力はもちろん、悪女として振る舞って彼らの体面を整えてきた。馬鹿なことをしていると分かっていた。そんなことをして、彼らが家族として自分を受け入れるわけがないと分かっていても。一人の女性として笑うことすら許されない環境を、窮屈に感じなかったわけではない。でも。それでも。そんな環境でも、なくなることが怖くて。「また来よう」樹は静かに言った。また。次の約束に縋りたくなる自分の弱さには、苦笑してしまう。「本でも、花でも、行きたい場所があれば連れて行く」樹は肩を竦める。「全部
「すごい……」小春は思わず声を漏らす。本が天井近くまで並び、平積みされた新刊や季節の特集コーナーが目に飛び込んできた。「好きに見てこい」「え?」小春は振り返る。困惑と、見放された子猫のような眼差しに樹は思わず目を逸らす。そんな樹の様子に、店員や客に扮して先に入店していた護衛たちが驚き、近くにいた仲間に思わず身を寄せる。「橘さんには、可愛らしい写真を撮ってくるように頼まれたのだが」「樹様も含まれていたのだな」「微笑ましい」彼らの隣を通り抜けていった高校生らしきカップルよりも、彼らの主人のほうが遥かに初々しく見えたのだった。.「一緒に回るが、小春の見たいものを見る」樹は穏やかに答えた。「ただ、俺に遠慮して小春が好きなものを見られないのでは来た意味がない」「……でも」「俺がそうしたいだけだし、俺が花に興味を持つきっかけになれば母も喜ぶだろう」母親に何度も念を押されて世話を任されたときは庭師に任せた樹だが、小春が興味あるなら一緒に庭ことをやりたいと思っている。つまり、すでに興味はあるのだが、樹はそれを微塵も見せなかった。「だから、一緒に回ろう」その言葉に、小春は自然と笑みを浮かべる。「ありがとうございます」植物図鑑の棚へ向かい、一冊一冊手に取っては嬉しそうにページをめくる小春。その姿を少し離れた場所から見つめる樹の表情は、仕事中には決して見せないほど穏やかだった。護衛たちが二人の姿を隠し撮りをしていく。あとで不審者がいた時に役に立つと言い訳しながら指を動かした。「この本……」小春が一冊の図鑑を手に取る。子ども向けではなく、庭づくりの技法など専門的だ。思わず夢中で読み始める。「気に入ったか?」いつの間にか隣へ来ていた樹に声を掛けられ、小春は慌てて本を閉じた。「すみません。つい夢中になってしまって」「謝るな」樹が手を差し出し、小春は見ていた図鑑を渡す。樹も見てみたいのだと思ったが、樹は側に控えてきた店のスタッフに本を渡しただけだった。「他には?」「えっ?」小春は戸惑った顔で、スタッフを見る。胸につけた名札には『ブックコンシェルジュ』と書かれていた。聞き慣れない役名だが、想像はついた。想像はついたが。「こちらの本がお気に召したなら、こちらのエッセイもおすすめです」彼が差し出したタブレットを受
流線の美しい藍色の車がゆっくりと街へ入る。窓の外を流れる景色を見つめながら、小春は小さく息を呑んだ。「街へ出るのは久しぶりか?」「え?」樹の質問に小春は戸惑う。隣を見ると、樹は運転中で前を見ていた。目が合っていない。少しだけ愚痴めいたことが言える気がした。「はい」小春は窓の外を見る。朝比奈家にいた頃、外出はほとんど病院か社交の場だけだった。自由に店へ立ち寄ることも、街を歩くことも許されなかった。「初めて、かもしれません」なんで。どうして。そう聞かれる覚悟はしていたが、樹は何も言わなかった。息を吐く。力が抜ける。緊張していたことに気づいた。「変、ですよね」自嘲的に呟いた言葉は。「少数派ではあるな」あっさりと受け止められた。「しかし、変とは思わない」気を使ってもらっているのかと思ったが。「性に合うという言葉の通り、生活の仕方なんて人の性格の数だけある」樹は肩を竦める。「深く考えるな。性格や好きなことなんて、変わるときは勝手に変わる」「変わる、でしょうか」「変わる」きっぱりと断言された。小春は少し意外に思い、樹を見た。顔は前に向けたままだが、視線だけこちらに向けられて目が合う。「経験したから、間違いない」樹が口元を緩める。「小学校の高学年になるまで、俺は母親と二人の母子家庭で育った」「え……」「父には幼い頃からの婚約者がいて、母とは遊びだった」結婚まで。母親はそれを承知で父親と関係を持ったが。「避妊に失敗して、俺ができてしまった」「……それは」「事実だ
数日後。朝食を終えた小春は、軽く首を傾げた。今日は平日。樹はスーツ姿。だが、朝食を食べ終えているのに、まだ食堂にいる。普段も、慌ただしく出かけていくわけではない。ただCEOという立場にあるからだろう。朝食の席であってもすでに仕事を気にかけているように、どこか落ち着かなかった。「失礼します」柳沢が食堂に入ってきた。彼を待っていたのかもしれない。「おはようございます、小春様」「おはようございます」仕事だからと小春が席を立とうとした。食中ならば樹たちに気を使われただろうが、食後のお茶も飲み終えている。だが。「小春様、よろしければそのままで」柳沢に止められる。「すぐに私が退散しますので」おじゃま虫ですから、と言う柳沢に首を傾げる。「小春」「はい」「今日の昼前から夕方まで、時間はとれるか?」「はい、大丈夫です」「では、出かけよう」あっさりすぎた。小春は一瞬、言葉の意味が分からなかった。「え……?」樹はこちらを見ていた。「本屋、行きたかったのだろう」小春が思わず橘を見ると、橘は申し訳なさそうに小さく頭を下げる。「私が、お話ししました」「今日は休みにした」「ご、ごめんなさい!」小春は慌てて頭を下げる。「お忙しいのに、お時間をいただくなんて……」「謝るな」樹は静かに首を横へ振った。「二件やることがあるが、出社の必要はない。そうだな。十時を目安に出かけようか」「……でも」「たまにはいい」あまりにもさらりと言われ、小春は返事に困ってしまう。